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アフリカ系アメリカ人の女性、愛国者及び王党派

アメリカ独立戦争の自由と平等という美辞麗句の影に隠れて、間もなく合衆国となる国で最も虐げられた集団は同時期の学者達にも忘れられる存在だった。アフリカ系アメリカ人の女性達は、その大多数は奴隷であり、戦中に重要な役割を果たしたものの、その始まりに期待した程には得るものが少なかった者達である。

1770年代、アフリカ系アメリカ人の大多数は北部でも南部でも奴隷であった。戦争への緊張が高まった時に、イギリスは奴隷が植民地の弱点であることに気付いた。実際にアメリカ独立戦争の前後の20年間というものは、奴隷社会の動揺が最も大きかった。1775年1月、イギリスの議会はすべてのイギリス領土における一般の開放が提案され、「バージニアや南部植民地の謙虚な貴族階級の精神」を政治的に操作しようとした。(イギリス議会及びウェストミンスター・ホールにおけるエドマンド・バークの演説)植民地の奴隷達はその要求に対するイギリスの開放性を認めた。1774年2人の奴隷が、イギリス軍の総司令官でマサチューセッツ総督のトマス・ゲイジに、戦争で戦う替わりに自由を請願した。

奴隷制度は南部社会の根幹であり、イギリスはその解体が南部の抵抗を弱めるものと考えた。1775年4月、バージニア植民地知事のダンモア卿はバージニア議会が反抗を企んでいると疑い、植民地の火薬庫を押収した。このことが武器を取った暴動に繋がった。ダンモア卿はバージニアの海岸から軍艦で逃げる際にダンモアの宣言を発した。この宣言は戒厳令を発し、「すべての契約に基づく召使い、黒人その他の者は自分の意志で武器を取ることができる」として解放を提案していた。1775年のイギリス議会提案と同様に、ダンモアの宣言はバージニアの奴隷保有者を怖がらせ奴隷達を勇気づける意図があった。特に黒人男性は主人を捨て、平等の理念に基づく反乱を起こさないように意図された。

ダンモアの宣言に反応した奴隷の3分の1は女性であった。植民地時代に逃亡者の約8分の1は女性だった。逃亡を試みた女性の比率が小さかったのは、彼女たちが奴隷家族をつなぎ止める役目を果たしていたからであった。大部分の女性は家族、特に子供を残して逃げることはなく、もし大集団で走れば捕まる可能性を急激に増すものだったので、単に逃亡しない選択をしていただけだった。もし奴隷の女性が所有者のもとを離れるとすれば、売られてしまった家族と再会するためであることが多かった。

ダンモア卿の宿営地に殺到した男達の中には実際に戦闘に参加する者もいた。ダンモアは元奴隷の中から約500名の「エチオピア連隊」を作り、彼らの前の主人との戦いに加わらせた。しばしば彼らの妻達も従軍させ、宿営地の料理人、洗濯女、看護婦をやらせた。ダンモアの主宿営地にいた独身女性も同じような仕事に就いた。

1776年6月、ヘンリー・クリントン将軍が、主人のもとから逃れイギリス軍宿営地に駆け込んだ奴隷は「この戦線の内側での安全と適当と考える職業を保証する」約束を宣言した。イギリスの奴隷に関する宣言と同様に、クリントンの宣言は自己中心的で二律背反的であり、戦後の自由を得るために大陸軍に加わったアフリカ系アメリカ人の存在によって警告を発せられた。しかし南部の奴隷所有者達は、クリントンのフィリスバーグ宣言を彼らの財産と人生に対する攻撃であり、無政府状態を生むものと見なした。この宣言は反イギリス感情を喚起し、南部愛国者を励ます声を強くすることになった。

フィリスバーグ宣言後にクリントン将軍のもとに加わった奴隷達の多くは家族ごと家を離れたものであった。クリントンはこれらの黒人を登録して、平和と秩序を脅かすとも見られる主のない多くの男達を管理しようとした。この登録作業の中でクリントンは、王党派のシンパから逃げ出した奴隷をすべて元に帰らせた。

留まることを許された奴隷の中で、労働の仕分けは性別で分けられた。男は通常、砲兵部隊や工兵部隊で、大工、車輪修理工、鍛冶、木こり、道具の修理人、馬車や台座の作成と修理を行う者などとして雇われた。男も女もマスケット銃の薬包を作ったり、飢えた兵士のために食肉処理したり保存したりした。南部の黒人女性と子供達は辺りの地形を良く知っていたので、間違えやすく湿地の多い地域では道案内を務めた。

イギリス軍はこれらの奴隷達を戦利品と見ていた。士官達は奴隷を自分のものにし、多くの元奴隷が個人的な召使いとして仕えた。イギリス政府はこれに対する異議を唱え、彼らは王室の財産であり、公的な作業計画での労働、あるいは一般的な形で農耕に従事させるべきであるとした。大部隊のイギリス軍は常に食料の補給を必要とし、船で運ぶのは高くついたので、農耕労働は是非とも必要なものであった。これらの奴隷達は奉仕の見返りとして解放を約束された。

南部における多くの奴隷所有者は逃亡や戦争による奴隷の殺害を防ぐために、その奴隷達を匿うようになった。彼らは実戦とは遠く離れた地域、通常はフロリダや西部辺境域の所有地に送られた。

イギリス軍と同様に、アメリカ政府も黒人達を軍隊の潜在的な戦力と認識していた。しかし、ジョージ・ワシントン将軍は当初、人種問題に基づく反論のために、また管理できなくなるくらい多くの黒人が徴兵されることを恐れて、解放と引き替えに奴隷達を戦争に駆り立てることを逡巡していた。それゆえに、戦争の開始とともに自由黒人、人口でみればほんの数パーセントが従軍することを許された。しかし、1777年から1778年にかけてのバレーフォージの冬、ワシントンは戦力の不足を感じて、あらゆる黒人男性の入隊を認めた。さらに黒人奴隷はその主人のもとで、あるいは監督下で従軍できるものとした。イギリス軍にいたドイツ人傭兵の士官は1777年に「黒人が沢山いない連隊はみあたらない」としている。大陸軍には、ダンモアのエチオピア連隊と同じく、すべて黒人からなる大隊が2個あった。
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南部の愛国者にとって、黒人奴隷の女性は必要なものであった。彼女たちは、チャールストンやサバンナなどあちこちの町や都市の包囲戦で防壁を作ったり修理したりする大量の労働力であった。

戦争の終わった直後の期間はアフリカ系アメリカ人にとって多くの期待と優柔不断が続いた時期であった。新国家はその理想に則って奴隷制度を廃止するものと予測する者が多かった。しかし、奴隷制度は事実上新憲法にも組み入れられた。奴隷制度が通常見られず特に利益にも繋がらなかった北部諸州ですら、段階的奴隷制度廃止に多くの年月と法廷闘争を要することになった。

法廷闘争の有名な例は西部マサチューセッツで育った奴隷のマム・ベット事件である。1781年にマム・ベットは所有者のもとを離れ弁護士セオドル・セジウィックの支援により、裁判所に請願した。その内容は奴隷制度が「人間は生まれながらに自由で平等である」とうたった新しいマサチューセッツ憲法前文に相容れないものであるということであった。州裁判所は2年後に判決を下し、奴隷制度はマサチューセッツ州では違法であると宣言した。マム・ベットはもはや奴隷ではなくなったので、エリザベス・フリーマンを名乗った。同様に1782年、ベリンダという名の奴隷女性が、その解放のためではなく、奴隷として仕えた50年間に対する補償を求めてマサチューセッツ議会に請願を行った。しかし、すべての州がマサチューセッツの先例に素早く反応したわけではなく、1810年でも北部諸州にまだ27,000名の奴隷が存在した。

終戦後、17世紀の大陸移民ほど多くはないにしても、多くの黒人が北部の都市に移動した。この移動は大部分が女性であった。独立戦争前の北部の都市人口は男性が圧倒的多数であった。1806年までにニューヨーク市の女性人口は男性に対して4対3にまでなった。この不均衡の拡大は海洋産業が独立戦争後の最大の黒人男性雇用者となったことで、多くの若い黒人男性が一時に数年間海に出て行ったことによっていた。北部の農村地帯にいるアフリカ系アメリカ人はまだ男性の方が多かった。

北部の都市に住んだ黒人の多くはサービス産業に雇われた。料理や配達、馬小屋の掃除、散髪や御者などであった。この都市黒人社会では家庭生活が崩壊した。多くの家族は独立戦争の間に、その混乱の中であるいは奴隷に戻って、家族の一員を失っていた。多くの雇用者は黒人の家族を丸抱えすることは拒み、家庭内の女性あるいは男性の労働者のみを雇うことを好んだ。一緒に住むことを選んだ家庭は下宿人をとって収入を補うか、他の黒人家族と同居して、独立戦争後の伝統に囚われない黒人家庭の生活様式を作っていった。

南部では奴隷制度がより揺るぎないものになり、西部にも広がるにつれて、崩壊する家庭が増えた。例えばチェサピーク地域では、農耕と経済の態様が戦後に変わった。現金を生む作物としての煙草は労働集約的であったので、これを嫌って他の作物に転換する農場主が多かった。奴隷による農業が拡張していた低地南部や西部に多くの奴隷が売られて行った。売られない奴隷であっても技能を持った男達は賃貸されて家族からは切り離された。

戦後、多くの王党派が合衆国を離れ、ノバスコシアやイギリス領バミューダ諸島に移住した。彼らは奴隷も帯同したが、奴隷にされたアフリカ系アメリカ人は解放を経験することもなく、偏見が減るでもなく、また自由黒人は多くの試練を味わうことになった。

独立戦争の美辞麗句は多くの変化を約束したが、アフリカ系アメリカ人、特にその女性にとっては約束はほとんど果たされなかった。多くの女性の位置付けは、いいようには変わらなかった。南部では家庭生活が不安定なものになり、北部では奴隷制度が徐々に廃止されたが、経済的な機会や家族の安定は都市部でゆっくりと失われていった。黒人女性は愛国者側にも王党派側にも大きく貢献したが、その進む方向は予想外のものになっていった。

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2009年03月06日 12:01に投稿されたエントリーのページです。

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